がやがやと賑やかな音が耳に届いた。そう遠くない所から聞こえるこの喧騒は懐かしい気がした。
いつも当たり前のようにそれを耳にしていて、そして自分も当たり前のようにその中にいた筈だ。
(ラズリル……)
多くの人達が生活し、鍛錬をする声や、元気な話声それから緊張を孕んだ怒鳴り声。
全て当たり前のような毎日。夢のような毎日。
(ああ、帰ってきたんだ。)
ラズリルに。潮の香りがつん、と覚醒しかけた鼻に届いた。
その香りもいつからか当たり前の日常の一つになっていた。
(皆、元気かな。ジュエル、ポーラは相変わらずかな。)
二人の笑顔や何かやらかす度に見せるちょっと怒ったような表情。
二人が怒ると誰も手に負えなかった。あのセルシオでさえ。思いだすと懐かしさで胸が熱くなった。
ぼんやりと重い瞼を持ち上げる。
(帰る、ってどうやって?夢。そもそも私は…)

「ここ……。」

帰る場所は果たしてラズリルなのだろうか、ふと頭を過ぎるのは一つの風景だった。

「どこ……?」

そこは、ラズリルの自室でもない、そして輝くような星空でもない、ハヅキの記憶の中にはない天井だった。
ラズリルではない、という事実がハヅキの気分をさらに落としたが、それ以上の倦怠感が体中を襲った。
そもそも自分は本当は何処にいたのか、ラズリルでの生活もそれから、海に流されたこと、
全てが曖昧な記憶でしかないのではないかという気持ちが倦怠感に絡まって、再び瞳を閉じた。
相変わらず周りの喧騒だけが、当たり前のように続いていた。
恐らくそう広くない個室のベッドに寝かされていたのであろうハヅキのそう遠くない位置にある扉の向こう側からそれは聞こえてきた。
その扉を隔てて、ハヅキだけが別世界にいるような感覚。
本当は、全てが夢で、このベッドの上で見ていただけなのかもしれない。

もう、目を開けたくない。

もう、何も考えたくない。

全てを忘れることは辛いって、しってるのに。










programma4-2 Reminiscenza- 記憶 -












「ようやく目が覚めたようだね。」


その声は初めて聞くはずなのに何故か心地よくてすとんと胸に響いた。
心臓が再び息を吹き返したように、どくどくと鼓動を始め、体中がその声を求めるように熱を持ち始めた。
「だ、れ?」
声が掠れる。どの暗い眠っていたのだろうか、咽はからからに乾いていて、久しぶりに発した自分の声はあまりにもか細く、
それは決して咽の渇きからくるものだけではないとうっすらと理解している。
いつの間に部屋に入って来たのだろう、声の主はこつり、こつりとハヅキが横たわるベッドへと近づいてきた。
ゆっくりとそちらへと視線を向けると、日の光を浴びた、とろけそうなほど甘い茶色の髪が視界に入る。
そして港町には到底似合わない透き通るような白い肌。
まるで異国を思わせるのに十分なその出で立ちは恐らくこの国の者ではないということが伺えた。
ハヅキに触れられる距離まで来てようやく立ち止まると、ゆっくりとした動作で顔を覗き込まれる。
あまりに端正な顔は今は人形のように無表情で、その綺麗な瞳と視線が合わさった瞬間、
ハヅキの時はかちり、と止まってしまったように身動きが取れなくなった。
あれほど賑やかだった喧騒も今では耳に入ることすらない。相手の口が再び開かれるのを息を殺すように待った。
実際呼吸をすることすら忘れてしまったのかもしれない。

「この僕がこれだけ探し回ったっていうのに、結構なことを言うもんだね。」
焦がれる、という感覚はこういうことを言うのだろうか。
苦しい。
その瞳に射竦められたように体中の思考が言うことを聞かない。
そうやって見つめられると、全てを見透かされたようで酷く落ち着かなかった。
しかし、逃れる術をハヅキは知らず、知ろうともしないのだ。
腕が伸ばされ未だ固まったままのハヅキの髪をそっと撫でられる。
耳に届く声は甘美な囁きのようにハヅキの心をとらえて離さない。

(私は知らない。)
こんな瞳。こんな優しく撫でてくれる手も。だって。
(記憶が無いのだから)
相手はまるで当たり前のように、自然に振る舞うけれど、今のハヅキは初対面の筈なのだ。
だから、こんなに焦がれるはずは、ない――――――――
「やっと見つけたと思ったら、今度は海に沈んでいるし、一体君は何がしたいんだい?」
まったく、とため息混じりに言われれば、
ようやく思考が戻ってきて、どうやら海に落ちたのは夢ではなくておぼれたハヅキを助けてくれたのはこの目の前の青年である、
ということを理解した。
優しく撫でられる仕草が酷く心地良い。このまま流れに任せて眠ってしまおうか、思考が沈みかけたところで、ふと我に返った。
(知らない人にこんなに無防備になるんなんて!)
青年の言っている事が事実だとすれば『知らない人間』ではない。
しかし生憎とハヅキにはその記憶がない。
何を信じて何を疑うべきなのか、今のハヅキには判断することが出来なかった。
もしこの状況をセルシオが見たら彼はなんと言うだろう。
説教されるに違いない。

だけれど

「貴方はだれなの?」

そう口にした裏側で、見えない壁の裏側で歓喜しているもう一人の自分がいる。
記憶にない懐かしさで、胸が締め付けられそうな奇妙な感覚が、壁を越えて溢れ出てきそうだった。
(心が崩れそう)

「……は?何その笑えない冗談は。」
ぴたり、と手の動きが止まる。
沈黙のあと剣呑な空気を纏った声が部屋に響くと、どうやら自分が相手の想像の範疇を越える発言をしたのだと気付く。
そう言えばセルシオと初めて会ったときも似たような事を言って彼を驚かせたのだったと思いだした。
あの時の彼は目の前の青年ほど驚いていなかった気もするけれど。加えて今の場合は何故か怒りも含まれているような。
「ええと、すみません、実は私ちょっと今厄介なことになっていて、その、なんていうか」
はっきりと事実を告げてしまったら殺される、そんなオーラを感じて思わず口ごもる。
「はっきり言いなよ。」
「ちょっと目を離したすきに過去を海の底に忘れて来ちゃったっていうか」
その瞬間、ぴしりと空気が凍るのを感じた。

「は?」

怖くて顔を上げることが出来ない。相手の顔を見てしまったら最後、海よりも深いところに落とされるかもしれない。
まさか病み上がりの女の子にそんな仕打ちをするわけがない、と思っていても。
「私の今ある記憶の中に貴方は見受けられないんです…が…。」
もしかして私と知り合いでした?なんて白々しい言葉を続けるの憚られた。
外気温よりもさらにさらに低い温度が直ぐ横から流れてくるのがこの上なく恐ろしい。
「つまり君は今現在記憶がないっていうこと?
しかもご丁寧に僕と離ればなれになった直後に一切の記憶を失ったと?
僕の事を覚えて…いない?」
否、と言えたのならどれだけ楽なことか。この殺伐とした空気を少しでも緩和できた事だろう。
「……はい。
申し訳ないんですけども。貴方が何処のどなたなのかまったくわからない…」
そう答えた瞬間、全ての時が終わりを告げたような凍りつくような悪寒さえした。
それはハヅキの返答なんてとうに理解していたであろう青年から発せられたものだ。
彼の中で『理解』が『確信』に変わった瞬間でもあった。

「なんてことだ!」

そう言って青年はわざとらしく天井を仰いだ。
「通りで、君の気配を探っても全く探し出せなかったわけだ!
当たり前だよねだって君に一切記憶が残っていないんだから。
僕の知っている気配を察知することなんて出来るわけなかったんだ!」
再び視線を戻した時、青年の瞳が据わっていたのは気のせいではない。
「なら、紋章は?僕を勝手に巻き込んだそのはた迷惑な紋章はどうしたんだい?」
「紋章?って何のこと?」
段々青年の迫力に押されて引き気味なハヅキに臆することなく詰め寄る。
そうして青年は突然ハヅキの胸元に手を伸ばした。
いつの間に着替えていたのか、清潔そうな白い寝巻きのボタンに手がかかりそうになる。
「ちょ、何するんですか?!」
青年の突然の暴挙に我に返ったハヅキは抵抗を試みるも、体が思うようについていかない。
何より一見線の細そうに見える青年の力が意外にも強かった。
しかしそんな様子のハヅキを煩わしそうに一瞥すると、すんなりと手は引いていった。
「もういいよ、察するにその紋章も一切身を潜めていたんだろうね、
この僕が紋章の気配を探っても探し出せなかったんだからね。
……結局僕ばっかりが空回りして苦労してたってわけだ。」
(い、いつかセクハラで訴えてやる…!)
剥かれそうになった胸元の襟を整えながら睨もうにも相手には全く効果はなさそうだった。
「やってられない。」
何かに納得するとどさり、とハヅキのベッドに腰を下ろした。
やはり目が据わっているのは気のせいではない。
「君はどれだけ僕を振り回せば気が済むんだい?」
「そんなことを言われたって、記憶がないんで…」
「そのよそよそしい喋り方もどうにかしてくれない?いい加減薄ら寒い」
「ええっと」
「まっく冗談も顔だけにしてほしいよ。散々僕を振り回してこんなところにまで連れてきておいて、
当事者の君はなに?悠々快適に暮らしてあまつさえ呑気に記憶まで失っただって?
知ってはいたけど君の脳天気にはほとほと呆れるね。」
態とらしく肩を竦める青年に怒っていいやら、泣いていいやら対応に困る。
相手だけが一方的にハヅキのことを知っている状況は妙に歯痒い。
考えてみれば過去の自分を知っている人物に会うのはこれが初めてなのだ。それにしても
(唯我独尊、利己主義で俺様。どうして私の周りにはそんな人種ばかり集まるんだろう)
口にしたいけどしてはいけない。それくらいはセルシオで勉強済みなのである。

再びやんわりと手が降ってきて今度は頬に触れた。
先程までは人形みたい、と思っていたけれど、今は違う。その瞳は感情を露わに

「僕を忘れるなんて許さない」

その言葉はゆっくりとそれでも着実にハヅキの胸に浸透していった。

全てを飲み込むような、全てを縛るような強い瞳。

そこに映ってっているのは紛れもなくハヅキ自身で、それを映しているのは彼。

どうしてこんなにも

知らないはずなのに

この瞳に惹かれるのだろう

「貴方は誰?」

気のせいでないなら、自分の思い違いでないのなら、彼はきっと―――

「僕の名前はルックだよ。なんで君に名乗らなきゃいけないんだ。」
そう言ってくしゃりと頭を掻いてため息をついた。
『ルック』
その名前の響きははなぜかハヅキの心にすとん、と落ち着いた。
彼は一体自分の何だったのか、ただの知り合い、程度ではないことは確実だった。
それを知ることによって、何かが変わる気がする。
知りたいけど、知りたくない。そんな矛盾した思いがぐるぐると頭の中を駆けめぐる。
混乱の中で一つだけ思い出した事がある。

セルシオは、セルシオ達は無事なのだろうか。












PAGETOP